出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統) [日本]


出口王仁三郎と大本の歴史1(厳/瑞の二霊統)」から続くページです。

前のページは、主に、大本の二大教祖だった出口ナオと出口王仁三郎の二人の霊統(厳の御霊/瑞の御霊)が、結合し、対立していた時代を扱いました。

このページでは、主に、ナオ亡き後、王仁三郎が2つの霊統を統合(伊都能売の御霊)して体現したとする以降の時代を扱います。

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<鎮魂帰神法>

1917(大正6)年に創刊された機関誌「神霊界」では、王仁三郎は、本田霊学や鎮魂帰神法、そして、大石凝真素美らの言霊学、言霊学による記紀解釈などを紹介しながら、大本霊学を構築しました。

鎮魂帰神法は、当時の日本で流行し始めた心霊主義、心霊への興味と合致していたため、多くの人が大本教に足を運んでそれを体験しました。
そして、それが入信者の増加につながりました。

「神霊界」を創刊の前後から、大本には、学者や軍関係者、政治家などの入信者が増え始めていました。
ラフカディオ・ハーンの弟子で、有名な英文学者であり、横須賀の海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎もその一人です。

王仁三郎は、浅野を「神霊界」の編集長に起用しました。
浅野は、大本で審神者の才能も発揮し、「神霊界」でも鎮魂帰神法を宣伝して大本の信者獲得に寄与しました。
他にも、後に王仁三郎とは別の形で霊学を総合し「天行居」を開いた友清歓真や、「生長の家」を開いた谷口雅春、「世界救世教」を開いた岡田茂吉も参加していました。

こうして、大本は、大正10年に弾圧が起こる頃までには、信者が30万人ほどに達しました。

浅野らは、大本の鎮魂帰神法を、誰もが神人合一を体験できる方法と宣伝しました。
ですが、実際には、憑いている狐や先祖の霊を落とすことで、心身の治療を行うものとして使われました。
大本幹部の中では、「病気鎮魂」という言葉が使われていました。

ちなみに、後の1923(大正12)年、王仁三郎は、鎮魂帰神法を原則的廃止し、関東大震災後に、「み手代お取次」を導入しました。
これは、鎮魂瞑想と祝詞によって、取次人が霊界と合一し、病人にしゃもじを当てて霊的エネルギーを丹田から注ぐというものです。

王仁三郎は、鎮魂帰神法は、特別な能力・資質を持った人間でないと、無意味で危険であると考えていました。
ですが、鎮魂帰神法は、大本の信者、信者獲得のための治療方法として機能していましたので、鎮魂帰神法のソフト・ヴァージョンを作った、ということでしょう。

「み手代お取次」は、大本以前の教派神道が使っていた方法を参考にしたものでもありましが、その一方で、大本以降の新興宗教の方法の起原にもなりました。


<霊界物語>

1919(大正8)年、出口ナオが亡くなり、澄が二代教主となりました。
王仁三郎は、ナオに変わってお筆先を書くようになりましたが、これを「いづのめしんゆ(伊都能売神諭)」と呼びます。

これは、王仁三郎の御霊が、自身の「瑞の御霊」に加えて、ナオの「厳の御霊」を兼ね備えた存在である「伊都能売」になったことを示しています。
王仁三郎が「弥勒の神」であれば、「厳の御霊」が降りても不思議はありません。

王仁三郎は、「伊都能売」について、根源神であって、豊受大神、木花姫命、観音菩薩であるとも書いています。

また、同年、大本は丹波の亀山城跡を買い取り、ここに本部を置きました。

そして、1920(大正9)年には、大正日日新聞を買収して、これを使って大本の広報を行うようになりました。


「神霊界」誌上では、1917年頃から、浅野らが、お筆先を解釈して「立替え立直し」の「大峠」が、1920(大正10)年に起きると主張して、「神霊界」でも大きく訴えました。
ですが、王仁三郎は、この是非に関して明言せず、この年に大本にとっての「大峠」が起こると予言していました。
ちなみに、この年は中国で革命の年とされた辛酉の年です。

運命の1921(大正10)年、浅野の予言した「世の大峠」は来ず、王仁三郎の予言した「大本の大峠」が起こりました。

この年、不敬罪、新聞紙法違反を問われた「第一次大本弾圧事件」が起こったのです。
綾部の本宮山神殿は取り壊され、80名が拘束されました。

ですが、王仁三郎は同年に仮保釈され、後の昭和2年に、大正天皇崩御にともなう大赦で無罪となりました。

「大本神諭」が発禁となったため、新たな聖典が必要となったこともあって、王仁三郎は、「霊界物語」の著述を開始しました。

「霊学物語」では、王仁三郎が救世主であり、大本の主体であり、ナオは補助的な役とされます。
また、天照大神をほとんど悪神のように描き、素戔嗚命を善神の救世主として描きます。

この方針展開と共に、浅野、友清らは大本を去りました。
浅野は心霊主義者となり、友清は本田流の鎮魂帰神法の立場から大本を批判し、独自の霊学を追求しました。


<民族主義から普遍主義へ>

1922(大正11)年、王仁三郎は、バハイ教の宣教師アイダ・フィンチと知り合い、ババイ教のエスペラントの導入、世界的人道主義などの普遍主義の影響を受けました。
そして、ババイ教と提携し、万教同根を主張するようになりました。

これを機に、ナオのお筆先が外国排除の思想を持っていたのに対して、王仁三郎は大本を普遍主義へと転向させていきます。
そして、1923(大正12)年、中国の道院(紅卍字会)と提携を行うなど、世界の多数の教団と提携を進めていきました。

1924(大正13)年、王仁三郎は、「五六七神政大国建設」のため、世界の艮である日本から、モンゴルを経て、世界の坤であるエルサレムを目指す旅に出ました。
これには、大本の信者であり、合気道の創始者、植芝守平もSPとして参加しました。
王仁三郎は、この時、ダライ・ラマを名乗り、大本ラマ教を宣言しています。

ですが、ソ連軍に行く先を阻まれ、満州軍につかまって送還されました。
しかし、日本の一般国民には、王仁三郎の試みが肯定的に受け止められたようです。
政治家の鳩山一郎も王仁三郎を称賛したようです。

1925(大正14)年、王仁三郎は、「世界宗教連合会」、「人類愛善会」を設立し、大本を「万教同根」の普遍主義的を掲げる教団へと変容させました。

1928(昭和3)年3月3日、王仁三郎は56歳7ヶ月になりました。
これは、大石凝満素美が、弥勒が下生すると考えた年齢です。
この日、みろく大祭という儀式を行い、大本の役員全員が一旦辞職し、翌日に新人事で再結成されました。
この年も、辰年でした。

1931(昭和6)年、日本の艮と坤に当たる北海道の芦別山と、鹿児島喜界ケ島の宮原山を開く神業を行いました。
これは、大本の艮と坤で行った神業に続いて、日本の艮と坤で行うものでした。

これは、大本の三段の「雛型経綸」の理論、つまり、大本で起こったことは日本で起こり、日本で起こったことは世界で起こる、とする理論に基づくものです。

1933(昭和8)年、「霊界物語」の73巻以降に当たる「天祥地瑞」の口述を始め、翌年まで続けました。
これは、「富士宮下文献」を言霊学によって解釈し、天之御中主神以前の神話を描くものです。


<第二次弾圧>

1934(昭和9)年、大本は、愛国団体「昭和神聖会」設立しました。
会員・賛同者は800万人に達し、創立発表会では内務大臣、衆議院議長らが祝辞を述べました。

1935(昭和10)年、治安維持法、不敬罪違反を問われた「第二次大本弾圧事件」が起こりました。
警察は、内務省より大本のかけらも残すな、との指示を受けていました。
亀岡、綾部のすべての神殿などが徹底的に破壊され、出口ナオの墓は掘り起こされ、信者の納骨堂まで破壊され、1000人以上が尋問・暴行を受けました。
そして、翌年には、大本に解散命令が出されました。

王仁三郎は、警察を意図的に挑発して弾圧事件を導いたと指摘する人もいます。
この見方によれば、大本の雛形経綸によって、大本を一旦潰すことが、日本を潰し、世界を潰すことにつながり、それによって立替えが可能となると考えていたのです。

例えば、王仁三郎は、大本弾圧が、日本の敗戦による武装解除につながり、それが世界の武装解除につながると考えていたようです。
また、大本が潰れることで、従来の世界のすべての(ニセモノの)宗教を潰すことができると。


<愛善苑>

王仁三郎は、1942(昭和17)年になって保釈されました。

王仁三郎は、1943(昭和18)年に大本の雛形の立て替えの地の準備作業が終了した、と宣言しました。

王仁三郎が晩年に読んだ歌によれば、ナオが神懸りになった明治24年に、艮の金神の隠退の3000年が終わり、その50年後の昭和18年に、「地の準備神業」を終えたのです。
つまり、大本の雛型を作る神業が終わり、「艮の金神」が本格的に現れ始めるということでしょう。

1945(昭和20)年、王仁三郎の無罪判決が決まりました。
そして、その翌年の1946(昭和21)年、王仁三郎は大本に代わる「愛善苑」を設立しました。

お筆先によれば、神は立替えについて人民に九分九厘までは伝えるけれど、最後の一厘は伝えられません。
そこでどんでん返しが起こるけれど、それは教えることができない、とされます。
これを「一厘の仕組み」と呼びます。

「霊界物語」では、「稚姫君命」らが、竜宮島と鬼門島(冠島と沓島)に隠した宝珠を、「国常立尊」が体と霊に分けて、その霊をシナイ山の山頂に隠したことを「一厘の仕組(あるいは、一輪の仕組)」と呼びます。

大本が「艮の金神」を世に出すためとして行った「沓島・冠島開き」は、体の方だったということでしょうか。

また、王仁三郎は、「伊都能売神諭」で、自分がその一厘を握っているとほのめかしています。

その一方で、王仁三郎は、「霊界物語」で、「いま大本にあらはれた変性女子はニセモノだ…いづれ現はれ来たるだろ。美濃か尾張の国の中…」と、後に託すようなことを書いています。

そして、1948(昭和23)年、王仁三郎は、亀岡の天恩郷瑞祥館で亡くなりました。


<その後>

王仁三郎が亡くなった後、「愛善苑」の第二代苑主には、王仁三郎の妻で、ナオの娘の澄子が就任しました。
澄子は、お筆先で、地上の金神である「金勝要(きんかつかね)の神」の御霊とされ、継承を指名されていました。
そして、澄子は、翌年の1949(昭和24)年に、「大本愛善苑」と改名しました。

1952(昭和27)年には、澄子が亡くなり、長女の直日が三代教主に就任し、同年に、「大本」に改名しました。

ですが、その後、大本は分裂します。

大本の教主は、国常立尊の御霊を持つ、出口家の娘が継承するルールとなっていました。
そして、直日の次の教主は、王仁三郎がナオの生まれ変わりとして継承指名していた、直日の長女の直美が予定されていました。

ところが、直美とその夫で斎司会を仕切る栄二の勢力と、長男の京太郎が仕切る教団執行部とに争いが生じました。

そして、教団執行部は、1982年に、嫁いでいた三女の聖子(きよこ)を継承者とし、1990(平成2)年に、直日が亡くなると、四代教主に就任させました。

一方、栄二らの勢力は、1981年に「出口栄二を守る会」を結成、後に「出口直美さまを守る会」、「大本信徒連合会」となりました。

また、王仁三郎の孫の和明は、1980(昭和55)年、に「いづとみづの会」を結成し、1986(昭和61)年に、王仁三郎を永久教主とする「愛善苑」を設立しました。

反教団側は、聖子の教祖就任を、王仁三郎が生前に予言していた、内部から起こる3度目の大本事件であると教団を批判しています。
また、「愛善苑」は、「霊界物語」でインチキ教団が「大本」を名乗ると予言していたことが起こっていると批判しています。


*出口王仁三郎と大本のコンテンツ

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